東出昌大 メンズノンノという鮮烈な響きに、いまの観客は何を思い起こすだろうか。山野を駆け、獲物を自ら解体し、煙の匂いを纏う孤高の男。あるいは、スクリーンで人間の業を剥き出しにする実力派俳優。だが、すべての物語には発火点がある。かつて東京のストリートで、そしてパリのコレクションで、圧倒的な長身を尖ったモードに包んでいた一人の青年がいた。消費されるアイコンから野生の表現者へ――その変貌の原像をたどると、一人の男が辿った壮絶な脱皮のドラマが浮かび上がってくる。
銀幕の重鎮から配信プラットフォームの熱狂的な視聴者までを惹きつける現在地にあって、カルチャーの視座から東出昌大 メンズノンノの時代を再検証する意味は極めて重い。それは単なる昔日のノスタルジーではない。華やかなランウェイで磨かれた空間認識と身体への冷徹な自覚が、のちに彼を唯一無二の俳優へと押し上げる決定的な土台となっていたからだ。
メンズノンノ専属モデル時代を徹底追跡!オーディション合格からパリコレ、俳優転身の裏側
時計の針を2004年に巻き戻す。埼玉県内の高校に通っていた16歳の東出昌大は、第19回メンズノンノ専属モデルオーディションでグランプリを獲得した。189センチという日本人離れした恵まれた体躯、凛とした眉、そしてどこか憂いを帯びた眼差し。審査員たちの目を奪うのに時間はかからなかった。
だが、その歩みは順風満帆なシンデレラストーリーとは程遠い。当時の関係者が明かす。「彼はカメラの前で器用に笑うタイプではなかった。むしろ服が持つ思想や構造を理屈で理解しようとする、職人気質な青年だった」。高校卒業後はジュエリーの専門学校へ進み、自らの手でモノを生み出す道も模索していたという。
転機は2006年から2011年にかけて訪れたパリ・コレクションへの挑戦だ。単身で現地に乗り込み、キャスティングの列に並ぶ日々。ヨウジヤマモトなどの名だたるトップブランドのランウェイを堂々と歩き、東洋人モデルとしての確固たる足跡をヨーロッパの地に刻み込んだ。世界の頂点に立った男の視界は、しかし満たされるどころか、より深い渇望へと向かっていく。
「服を見せるための黒子」であることに徹しながらも、自らの肉体を通して何かを叫びたいという表現欲求が静かに膨らんでいた。モデルとしての絶頂期に突如訪れた違和感。彼が選んだのは、地位も名声もリセットし、演技という未知の荒野へ飛び込む決断だった。
集英社が送り出した異端児:坂口健太郎らと築いた男性ファッション誌の黄金期
2000年代後半から2010年代初頭にかけての『メンズノンノ』は、出版不況の足音が忍び寄るなかにあって、異様な熱気を放っていた。その震源地にいたのが集英社と、専属モデルたちだ。
後に「塩顔男子」ブームを巻き起こし、時代の寵児となった坂口健太郎。軽やかで親しみやすく、現代的な空気感をまとった坂口ら後輩世代に対し、東出の存在感は際立って硬質だった。昭和の文士や往年の映画スターを思わせるクラシカルな骨格。どこか不器用で、時代の流行に安易に媚びない佇まいが、誌面に特異な陰影と緊張感をもたらしていた。
男性ファッション誌の枠組みを越え、カルチャーの旗手たちを多数輩出したこの黄金期。東出はその中心に身を置きながらも、常にどこか居心地の悪さを抱えているように見えた。洗練されたスタジオライティングよりも、吹き晒しの風が吹く場所を求めていた魂の輪郭が、当時のポートレートからも滲み出ている。
『桐島、部活やめるってよ』で開いた映画の扉:ファッションモデルの殻を破った覚悟
2012年、映画界に激震が走る。吉田大八監督がメガホンを取った『桐島、部活やめるってよ』。東出昌大は俳優への転身と同時に、この作品で鮮烈な銀幕デビューを果たした。
彼が演じたのは、野球部を幽霊部員として去り、何にも本気になれず苛立ちを持て余す高校生・菊池宏樹役だ。元ファッションモデルという肩書は、時として演技の世界では色眼鏡で見られる。だが、ラストシーンで彼が見せた、声にならない慟哭と流した涙は、観客の胸を激しく揺さぶった。
「モデルあがりの新人」というレッテルは、フィルムの回転とともに粉々に砕け散った。カメラの前にただ立つだけで物語を成立させてしまう圧倒的なスケール感。セリフの間、視線の揺らぎ、立ち姿の哀愁。ランウェイで培った極限の身体制御が、皮肉にも「演技をしない演技」という形で奇跡的な結実を見せた瞬間だった。
『Winny』から日本映画界の主役へ:泥臭い演技に昇華されたパリの洗練
日本映画の歴史において、モデル出身俳優が独自のポジションを築く例は少なくない。しかし、東出が歩んだルートは誰とも重ならない。美しさを脱ぎ捨て、内面をえぐるような泥臭い役柄へと傾斜していったからだ。
その極致が、実在の天才プログラマー・金子勇氏を演じた映画『Winny』(2023年)だ。東出は役作りのために体重を大幅に増量し、遺族から譲り受けた本人の遺品を身につけ、プログラミングの手元を徹底して再現した。そこにかつてのパリコレモデルの面影はない。だが、指先の角度一つで天才の孤独を表現する研ぎ澄まされた身体感覚にこそ、彼がかつてハイファッションの世界で学んだ空間へのアプローチが息づいていた。
数々の栄光と激しい毀誉褒貶をくぐり抜けたことで、表現者としての深みは増した。不完全さや危うさを内包した生身の人間を演じさせたら、現在の日本映画界で彼の右に出る者はいない。
『世界の果てに、東出・ひろゆき置いてきた』とABEMA・Netflix配信が生んだ再評価
スクリーンの外で巻き起こった再評価の波も見逃せない。その起爆剤となったのが、ABEMAで配信され社会現象を巻き起こしたドキュメンタリーバラエティ『世界の果てに、東出・ひろゆき置いてきた』シリーズだ。
アフリカや南米の過酷な大地に放り出され、現地の人々と片言の言葉と笑顔で心を通わせる。仕留めた獲物を手際よく捌き、現地の酒を飲み交わす東出の姿は、テレビ的な演出や虚飾に飽き飽きしていた視聴者を熱狂させた。スマートな論客であるひろゆき氏との絶妙なコントラストも手伝い、ネット上では「東出昌大という人間の剥き出しの魅力」に対する称賛が溢れ返った。
さらにNetflixなどのグローバル配信プラットフォームを通じて、彼の主演作や出演作が国境を越えてアーカイブされている。山中での狩猟生活をベースにしたドキュメンタリー的リアリティと、国際基準のフィクション作品とをシームレスに行き来する現在のスタンスは、旧来の芸能界のシステムから完全に脱却した新しい表現者のあり方を提示している。
ランウェイの貴公子から野生の表現者へ:過去と現在が交差する東出昌大の真価
煌びやかなフラッシュを浴びていたハイブランドのランウェイと、静寂が支配する雪山の森。一見すると対極にある二つの世界は、東出昌大という一個の人間の中で完全に地続きとなっている。
モデル時代に学んだ「自分を客観視し、提示する」という身体言語。そして山小屋での暮らしで獲得した「生きるための実感と生死へのまなざし」。この二つが交錯するからこそ、彼の演じる人物には抗いがたい凄みとリアリティが宿る。
過去を切り捨てたのではない。メンズノンノという厳格な美意識の洗礼を受けたからこそ、彼は自らの意志で泥にまみれ、血肉の通った表現へと辿り着くことができたのだ。予定調和を嫌い、自らの足で荒野を歩み続ける東出昌大。その真の軌跡は、今まさに新たな黄金期を迎えている。 (出典: 東出昌大 メンズノンノ(Yahoo!ニュース))