菊タブーという不可視の壁が、いまなお日本の言論空間を静かに侵食している。取材現場で漂う独特の緊張感。皇室関連のテーマに触れる際、記者たちが互いの顔色を窺い、過剰な敬語表現の裏へ事実を押し込めるあの瞬間を、私たちは何度も目撃してきた。単なる「敬意」の表明ではない。それは明らかな委縮であり、メディア自らが課した自粛の檻だ。大手新聞やテレビ局のフロアには、長年誰も触れようとしない冷たい空気が張り詰めている。
かつて凄惨なテロと流血を生んだこの菊タブーの亡霊は、ソーシャルメディアが世論を左右する現在も姿を変えて生き延びている。デジタル上のバッシングや街宣活動を極度に恐れる大手メディアは、自らペンを鈍らせ、論争の芽を摘み取ってきた。沈黙を選び続ける日本のジャーナリズムは、今まさにその存在意義を根底から試されているのだ。
血の記憶:中央公論社事件と深沢七郎が突きつけた刃
引き金は、一編の小説だった。
1960年、雑誌『中央公論』に掲載された深沢七郎の短編小説『風流夢譚』。皇室が処刑される夢想を描いたこの作品は、右翼団体の激しい怒りを買った。翌年2月、17歳の右翼少年が中央公論社社長・嶋中鵬二の私宅に乱入。家政婦を殺害し、社長夫人に重傷を負わせる凶行に及んだ。世に言う「嶋中事件(中央公論社事件)」である。
深沢七郎は各地を転々と潜伏し、中央公論社は誌面で謝罪広告を掲載した。暴力によって言論が直接屈服させられたこの瞬間、日本におけるタブーの輪郭は決定的なものとなった。「皇室を批判的に、あるいはパロディとして描けば、文字通り命を狙われる」。この原初的な恐怖が、報道関係者の骨の髄まで叩き込まれたのだ。
本島等長崎市長銃撃から続く「暴力による言論封殺」
恐怖による支配は、昭和から平成への代替わり前後に再び牙を剥いた。
1988年12月、長崎市議会において本島等市長(当時)が市議の質問に対し、「昭和天皇に戦争責任はあると思う」と発言した。歴史学者にとっては常識的な議論であっても、政治家の口から出たその一言は、右翼勢力の逆鱗に触れた。執拗な街宣攻撃、脅迫、そして1990年1月、本島市長は背後から銃撃され、重傷を負った。
日本新聞協会をはじめとする報道・出版業界は当時、暴力を強く非難し、言論の自由を守る声明を相次いで発表した。だが、事件の残した傷跡は深かった。表向きの連帯とは裏腹に、ニュース現場の自粛傾向は一段と加速した。昭和天皇の病状報道における過度な言葉狩り、批判的検証の先送り。「触らぬ神に祟りなし」という不文律が、強固なルールとして定着していった。
メディアが沈黙する「菊タブー」の深層:皇室報道の裏側と自主規制の実態
現在に至る言論統制の正体は、街宣車からの大音量だけではない。より巧妙で、より構造化された「官製アクセス制限」と「社内検閲」の複合体だ。
核心にあるのは、宮内庁と記者クラブの密室関係である。ある民放キー局のベテラン記者は、匿名を条件に次のように内情を明かした。「宮内庁担当記者の至上命題は、独自のスクープを抜くことではなく、発表事項を他社と同じタイミングで、失礼のない言葉遣いで報じること。少しでも批判的な角度から疑問を呈せば、オフレコブリーフィングから締め出され、行事の代表取材から外される。デスクも役職者もそれを最も恐れている」
近年、皇族の結婚問題や皇位継承をめぐる議論が過熱した際にも、大手メディアの多くは週刊誌やネットメディアの後追いに終始した。問題の核心に切り込む骨太な調査報道は影を潜め、公式発表の垂れ流しと無難な人物描写がテレビのワイドショーを埋め尽くした。権力を監視すべきジャーナリズムが、宮内庁の広報機関へと自発的に成り下がっている実態がそこにある。
『ゆきゆきて、神軍』が暴いた欺瞞とポリティカル・ノンフィクションの系譜
大手メディアが口を閉ざす一方で、表現の境界線を力づくで押し広げようとした表現者たちも存在した。
原一男監督のドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』は、その極北に位置する金字塔だ。主人公の奥崎謙三は、戦場で生き残った元日本兵として、昭和天皇の戦争責任を過激な行動で糾弾し続けた。天皇に向けてパチンコ玉を撃ち、元上官たちを追い詰めていくその異様な姿は、戦後日本社会が蓋をしてきた欺瞞を白日の下に晒した。
生々しい肉声と剥き出しの対立を描くポリティカル・ノンフィクションは、既存メディアが作り上げた「平穏な合意」を揺るがす力を持っていた。しかし、映画や活字の一部が切り拓いたはずのこの空間も、現代では制作資金の枯渇や炎上回避の風潮によって急速に縮小している。リスクを背負ってタブーの深淵へ踏み込む創作者は、絶滅危惧種になりつつある。
Netflixや外資系プラットフォームは不可侵の壁を破れるか
既存の枠組みが機能不全に陥るなか、一筋の風穴として注目を集めているのが黒船たちの動向だ。
かつて旧ジャニーズ事務所の性加害問題を最初に暴いたのは、英BBCのドキュメンタリーだった。国内のテレビ局や大新聞が長年黙殺してきた巨悪を、外圧が打ち砕いた構図は記憶に新しい。皇室やタブー視される政治的トピックについても、同様の地殻変動が起きるのではないかという期待が一部で高まっている。
事実、Netflixをはじめとする外資系配信プラットフォームは、国内の地上波では絶対に企画が通らないようなスキャンダルや歴史の暗部を題材にしたドキュメンタリーを次々と送り出している。記者クラブのしがらみに縛られず、広告代理店への配慮も不要な彼らなら、聖域に切り込めるのではないか。だが現実はそれほど甘くない。日本市場での事業拡大を最優先する外資勢にとって、過度な政治的摩擦はリスクでしかない。自主規制の波は、グローバル資本のアルゴリズムの中にも静かに浸透し始めている。
沈黙の共犯関係を超えて:ジャーナリズムが問われる覚悟
言論の自由とは、誰もが賛同する心地よい言葉を語る権利のことではない。権力者が耳を塞ぎたくなるような異論や、共同体の神話に傷をつける冷厳な事実を伝えるためにこそ、ジャーナリズムは存在する。
暴力への恐怖に端を発したタブーは、時代を経て、面倒を避けるための保身、そしてアクセス権を守るための打算へと変質した。誰もが「波風を立てないこと」を最優先した結果、国民は健全な議論に必要な判断材料を奪われ続けている。
見えない壁を作っているのは、右翼の脅迫でも、宮内庁の通達でもない。編集局のデスクで、番組の会議室で、自ら「やめておこう」と呟く記者たち自身の怯懦だ。この沈黙の共犯関係を断ち切らない限り、日本の報道機関が市民の信頼を取り戻す日は永遠に訪れない。 (出典: 菊タブー(Yahoo!ニュース))